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1945年・昭和20年 米軍に撮影された日本

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第二次世界大戦中、米軍のB-29が初めて日本本土を爆撃したのは、1944年11月24日の中島飛行機武蔵製作所とのことだそうだ。

それに先立つ11月1日に一機の写真偵察機が東京上空に現れた。B-29を写真撮影用に改装したF-13なる機体であった。

その後、連日のように飛来……、事前偵察、爆撃、事後の損害評価偵察という繰り返しが戦争終結まで行われた。

まさしく、本書の副題「空中写真に遺された戦争と空襲の証言」なのだ。

本書は日本地図センターが、1945年を中心に戦時中の日本各都市を広域かつ詳細に撮影した米軍偵察空中写真を一挙公開したものだ。

米軍は、これらの写真は、戦時中には対日戦資料として、戦後には占領政策の一環として撮影を行っていた。

日本地図センターは、2002年から米国立公文書館にて調査を行い、資料価値のある写真を、原フィルムから直接スキャナで取得したデジタルデータを収集した……とのことだ。

日本国の敗戦から70年……、爆撃され破壊された日本の各都市、東京、大阪、名古屋……、そして、原爆投下の広島、長崎の破壊前、破壊後の精密な写真が露になる。


目 次
偵察撮影に見る米軍の作戦~第3 写真偵察戦隊を中心に~ 工藤洋三
偵察されていた東京 小林政能
戦後70年、東京大空襲の実体験をもとに振り返る。 菊地正浩
正確な東京空襲被災地図整備のための提言 島方洸一
米軍が作成した焼夷区画図~東京大空襲の計画 工藤洋三
米軍に偵察された日本の都市 小林政能
幽か過ぎる記憶の中の横浜大空襲 野々村邦夫
1944年12月7日、隠された東南海地震 小林政能
広島・長崎、昭和20年夏 編集部
米国立公文書館の調査
米軍撮影空中写真の見方
編集後記

この見開き頁は1945年3月10日の爆撃成果確認の為の飛行によるものである。

10日未明から米軍空襲(ミーティングハウス2号作戦)によって下町への焼夷弾攻撃によって、死者約8万-10万、負傷4万-11万名、被災者100万名以上という、単独の空襲による犠牲者数は世界史上最大のものだそうだ。

写真では、まだ被災地からは煙りが上がっている。

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追記 150810

広島・長崎については日本地図センターの機関誌「地図中心」の増刊号があった。
 ● 地図中心 / 被爆60年増刊号


Posted by 秋山東一 @ August 8, 2015 03:08 PM
Comments

玉井さん、すみません。
何気に、見開き写真を選んでのせてしまいましたが、写真は3月10日の東京大空襲の直後の写真でした。まだ、煙りが上がる地上では何十万という人が息絶え、怪我に苦しんでいたのです。

Posted by: 秋山東一 @ August 11, 2015 10:40 AM

玉井さん、どうもです。
一番目のの見開き写真は1945年3月10日の東京都心上空の写真ですが、その前段階の八王子上空で北から東に進行方向を変えた時の写真まであります。その画面のどこかに自分がいると思うとどきどきします。
もう、5ヶ月後には敗戦……、広島・長崎の原爆投下……その前の8月2日、私がいた八王子も空襲でした。
http://landship.sub.jp/stocktaking/archives/001633.html

Posted by: 秋山東一 @ August 9, 2015 03:34 PM

地上では、食うものもない、武器もない、闘う男もいない、特攻をさせている・・・という状態にある。
その一方で、攻撃前・攻撃後の写真をしっかり記録に遺している。どう考えても、遠からず勝利は間違いない。

そういう圧倒的な戦力格差がありながら、なお本土決戦を主張していた連中が権力を振るっていたことに、上からはさらに原爆を落としてみようとしていたことに、押さえがたい怒りが膨らみます。

アジア太平洋全域に戦力をばらまいが状態で勝ち目などあろうはずもないのは、始めから分かりきっているのだからなおさらです。

Posted by: 玉井一匡 @ August 9, 2015 08:54 AM