050805

戦災マップ・根津/谷中

BARRACK finder

sensai_map_15.jpg

NEDU/YANAKA zone 辺りを「焼失地図帖/コンサイス東京都35區·區分地圖帖」で開いてみた。根津、谷中は「下谷區」で、不忍通りに沿っては「本郷區」となっている。

sensai_map_13.jpgピンク色の部分が空襲によって焼失した部分である。

上野駅から公園、根津、谷中の一帯はぽっかりと空襲から取り残された場所であることが分かる。
唯一、不忍通り沿いが被災している。

不忍通りの路面電車の経路は図内に収めるためデフォルメされている。

焼失地図帖/コンサイス東京都35區·區分地圖帖」は1946(昭和21)年9月発行されたものだ。

戦後40年、1985年に復刻された。第2次世界大戦、戦中から戦後の様相を知ることのできる地図帖なのだ。戦災焼失地域や強制疎開地区などの表示以外にも、当時の地名地番が明示されている歴史地図帖なのだ。

Posted by 秋山東一 @ August 5, 2005 09:37 AM
Comments

m-luis さん
谷中清水町はその全域が松平伊豆守【信綱は知恵伊豆といわれた】の下屋敷跡で、維新後に起こされた町ですね。
三河吉田藩(豊橋藩/7万石)最後の藩主は、維新後松平姓を捨て、もとの大河内姓にもどり子爵となりました。
その後継大河内正敏は理化学研究所を創設し、これを基幹とする「理研コンツェルン」を短期間に巨大な新興財閥に成長させ、同時に数多くの科学者を育てました。
由緒のある町です。

Posted by: akame @ November 14, 2007 05:29 PM

しつこいようですが(^^; やはり谷中スケッチブック(森まゆみ著)に、以下のような記載もありました:
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先の大戦でも、谷中は東京のなかでは被害が少なかった方といえるだろう。だが終戦も間近になるにつれ、空襲ははげしくなり、昭和二十年三月四日朝八時四十五分、百数十機のB29が谷中を襲った。三月十日の下町の大空襲は逃れたが、四月十三日夜半の爆撃は谷中を焼いた。
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ところで、この地図帳は、時々、スーパー源氏などで検索していますが、なかなか入手は難しそうです。

Posted by: masa @ August 6, 2005 08:07 PM

>AKiさん
ご指摘のとおりです。が、この場合は、町会名からとったようです。

Posted by: masa @ August 5, 2005 10:32 PM

「三崎町、初四町、真島町の三町名から一字ずつとって三四真地蔵」とありますが、「初四町」という町名はなさそうなので、「初音町四丁目」のことですね。

Posted by: 秋山東一 @ August 5, 2005 09:29 PM

被災をどうとらえるかにもよりますが、谷中も実際はかなりやられているようです。谷根千、初めて買って読んでみましたが、読み応えがありました。

Posted by: mob @ August 5, 2005 09:23 PM

申し訳ありません。前コメントに誤記がありました。
三四島地蔵 -> 三四真地蔵 です。

Posted by: masa @ August 5, 2005 02:19 PM

この地図は、以前紹介くださった時に、入手でねば!と思っていました。ところで、この谷中の被災につきましては、谷中スケッチブック(森まゆみ著)に、以下のように記載されています:
「コミュニティーセンターからよみせ通りに抜ける道沿いにある公園には三四島地蔵[みしまじぞう]が建立されている。昭和二十年三月四日朝八時四十分、この辺りはB29の大空襲を受け、小雪降るなか死者七十人、負傷者四百三十人、破壊された家屋二百戸という被害がでた。三崎町、初四町、真島町の三町名から一字ずつとって慰霊のために建立されたものである。」
この記述で被災の日時は明確に分かりましたが、被災した地区の特定ができませんでした。それがハッキリ把握できました。

Posted by: masa @ August 5, 2005 02:16 PM

AKiさん、私にとっては大変役に立つ地図をありがとうございます。
ちなみに私の祖父は昭和始まって間もなくの美術学校時代、清水町に下宿していたという記録が残っています。
しかし、谷中が被災しなかったのって一つには墓に爆弾落としてもしょうがないって判断だったんだろうと前から思ってはいたのですが、こうして見ると海抜の低い地域は燃えているわけで、下を燃やせば上にも移るって考えだったんでしょうかね。

Posted by: m-louis @ August 5, 2005 01:07 PM