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父の遺言書 /1943

ABOUT , etc.

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1943年(昭和18年)、戦争はまだ遠くにあった。
しかし、この年、学徒動員令・学徒出陣と戦争は身近なものになりつつあった。

父(32才)は、そんな状況に、母と私の三人家族の将来に不安を覚えたのかも知れない。7月「遺言書」を書いた。

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この遺言書について、父母からなにも聞くことはなかった。

母が亡くなった後の遺品整理の際、貴重品の入った文箱の奥に「遺言書」と表書きされた縦型の封筒があった。

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その中に父らしい癖のある文字で便箋3枚にわたって墨書された文書があった。

二枚目に「妻文子(ふみこ)へ贈る」とある。その内容は、まだ0才の私をどう育てるか、23才の妻に託したものだ。

「東一ヲ丈夫ニ育テル事」、これは幼少時代、自身が身体の弱かった父の願いであったであろう。

「中学校以上ハ東一の好ミニ應ジ教育スル事」、これも又、父の願いであった。彼自身、彼の父が創めた水戸の写真館の跡を継ぐため、好きな電気を勉強する事も適わず、写真専門学校にいかねばならなかった事へ抵抗だ。

我が子には好きなことをやらさせてやりたいという思いだったのであろう。

「身体ヲ大切ニシテ軍人ニナリタケレバ軍人トシテ教育スルモ可」、「身体を.....」は、命を大切にして...の意味だ。しかし、我が子が戦争を担わなければならない事態をも彼は想像していたのであろう。

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その2年後の1945年、小西六(現在のコニカミノルタ)でカラー写真の研究を進めていた父、秋山喜世志は出向を命ぜられた。
満州国、新京の満映(満州映画協会)で、カラー映画(その頃、カラーは天然色といった)制作のために満州に向かったのだ。

2月、母と2才の私、前年の9月生まれたばかりの妹の三人を残して、満州に向かって、新潟から朝鮮へと渡った。もう、戦争、そして死も身近なものだった。

その翌月には東京大空襲、半年後には、広島・長崎への原爆投下、そして1945年8月15日、敗戦(終戦)となるのだ。

この「遺言書」の封筒にはしっかりと半分に折られた跡がある。8月2日、父不在の我が家のある八王子も空襲を受ける、妹を背負い私の手をひいて逃げ惑った母の懐にこの封書がしっかりと保持されていたに違いない。

この遺言書は、戦後、夫・秋山喜世志の消息不明という事態のなかで、妻によって開封され、託された事項が実行されることとなる。

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戦後の満州の混乱、ソ連軍の侵攻、そして中国内戦は、父の帰国の道を閉ざしてしまった。
秋山喜世志が妻のもとへ、父として私と妹のもとに戻ってくるのは、1953年4月、8年後のことであった。

八王子大和田橋 /1943 夏
写真とともに百年


Posted by 秋山東一 @ April 5, 2005 03:57 AM
Comments

川好き...さん、どうもです。
その節は大変お世話になりました。
この遺言書を書いた父、秋山喜世志が亡くなって9年経ちます。父の1945年2月の渡満、そして1953年4月の帰国までの8年間について、父が詳しく話すというようなことはありませんでした。それは母への遠慮ではないかと思っています。
父は日中国交正常化の後、戦後一緒に苦労して満映を中国の映画会社へと変えていった、たくさんの中国の方々と交流していました、
その後、中国の写真界の重鎮となった馬守清氏は写専の後輩でもあり、特に親しくしていたと思います。
このブログで書く父の事も少ないのですが、なにかお役に立つことがあれば.......と思っています。

Posted by: 秋山東一 @ October 3, 2008 01:51 AM

「川の地図辞典」出版記念ウオークでの懇親会で御尊父が「満映」勤務から解放後中国に残られたお話を少し聞いて、関心を持ちいつかお話を伺いたいと思っていました。「満州映画撮影所」は解放後も残り(例えば朝鮮の放送局や関東軍倉庫などは日本人が火をつけて燃やしてしまった所も多いのですが)、中国人、日本から帰国した朝鮮人助監督、なども協力して1950年には朝鮮戦争の宣伝映画などを作っています。第二次世界大戦後の東アジアの再編成過度期の姿がその映画に現れているのです。といっても、私はろくに調べていませんので(いつか調べたいなとだけ思って)、お父上の戦後帰国までの事についてのエントリー、楽しみに楽しみにしております。是非お書き下さいね。あれれ、書込みに慣れないので、名前を出すの個所が「no]になったまま訂正できませーん。

Posted by: 川好き @ October 2, 2008 09:33 PM

父・秋山喜世志が満映にでかけたのは、このエントリーでふれているように1945年2月、満州崩壊・日本敗戦の6ヶ月前でした。日本敗戦後の父は、八路軍の一員として中国革命に参加し、中華人民共和国建国後は、中国の写真工業の建設に参加しました。
そのあたりの経緯は、又改めてエントリーしたいと思っています。

Posted by: 秋山東一 @ April 7, 2005 12:14 PM

実はこれまでブログではあまり触れてませんが、私の父は満州の生まれで、戦後、無一文にされて強制送還されるまではかなりホクホク生活をしてたと聞きます。ただ、父が満州にいたのは10代半ばまでであまりその記憶を持っておらず、そういう意味では元気なうちに伯母にその辺のこと、もっとちゃんと聞いておかないとなと今になって思わさせられました。伯母の家でデジカメ複写した当時の満州のハガキがあったりするので、そのうちそれについてもエントリーしてみようかと思います。

Posted by: m-louis @ April 7, 2005 11:34 AM

いいものを見せていただきました。りっぱな遺言書ですね。人の死に方はその人の生き方なのだと思います。「死は前からは来ない。いつも後からだ」と吉田兼好は徒然草に書きましたが、父上にはそうした思いがはっきりとあったのでしょう。

Posted by: komachi @ April 6, 2005 10:37 PM

はじめまして。mitsubakoです。M類さんのサイトから時々コメントを辿って読ませていただいています。
遺言書に満州とあって反応してしまった次第です。この時代は私の祖父も含めて満州へ渡った人は多くいたので結構、周囲の知人、友人にも話すと「家の祖父もだよ」とかという偶然は多いものです。私は、母から聞かされていた満州で、しかもとてもいい時代を過ごした記憶を分けてもらっていたので、満州に対しては好意的なイメージかありませんでした。でも、今少しづつ、歴史的な背景を読んだりしているとこうした自分の思いが傲慢あるいはロマンチスト的な回想であったような気がして恥ずかしくもあります。
祖父が母に宛てた数々の手紙の中にも、私をどう育てるべきかをいろいろ書いてあります。英語を勉強させろとか、情操を育てろとか……。孫に託す願い、思いがこうして墨で残っていたりすると、ちょっと困ったものだと困惑したりしています。

Posted by: mitsubako @ April 6, 2005 10:45 AM

TBいただいたエントリーからの流れということで、前置きなしに書き始めてしまいますが、私の祖父に遺言書はありませんでした。それは結果的に私の母と叔母の関係を見事に引き裂くことにも繋がってしまったのですが、あの手紙を書いてしばらく後に退院し、それから7年後に心筋梗塞で突如亡くなってしまったので、単純に覚悟を持つ暇もなかったということだと思います。

ただ、私は祖父の死後に始まる身内同士での相当醜い争いを子供ながらに見続けて来てまして、「親」から「子」へといった流れに対し、かなりシニカルに事を見てしまう癖が付いてしまっているようです。ちょうど私のブログのコメントスペースで秋山さんと共に mitsubako さんという方に個人的にメールでレスしますと書いているのですが、彼女が同時期にブログでエントリーしていた内容が友人の娘さんと1ヶ月同居しての感想で
http://www.mitsubachi-kibako.net/blog/archives/buzzing/buzz_050403.html
そこでその友人の娘さんのことを「最高傑作じゃないか」と書いているのですが、少なくとも私の目には、私の母がというわけではありませんが、私の母と叔母の間で生じてしまったものが祖父の最大の失敗作じゃないか?という風にも映っています。

以上、身内話ばかりのコメントでスミマセン。

Posted by: m-louis @ April 5, 2005 12:55 PM

私も含め戦争を知らない人たちに欠けている「覚悟」の重みをあらためて感じ入りました。
お父上がご長男の秋山東一さんの進路の自由を明言なさっているところもじっくり噛みしめました。

それと、これはやや話が飛んでしまって恐縮なのですが、本気でblogをやるのであれば本名をきちんと示すことが必要、と思いました。近いうち構成をあらため、実名で考え方や雑文を公開していきたいと思います。いつも勇気を与えていただいております。ありがとうございます。

Posted by: eirakusan @ April 5, 2005 08:08 AM