050425

写真とともに百年

ABOUT , ALBUM

shashin100_0.jpg

「写真とともに百年」は1973(昭和48)年に、小西六写真工業株式会社(現コニカミノルタ)の社史として出版された。本編だけでも 978頁に及ぶ大部なものなのである。小西六の歴史100年は日本における写真の歴史と同義といえるくらいのものなのである。

その559,560頁に、『「さくら天然色フイルム」満州へ渡るー満州映画協会への協力ー』という記事がある。
4月5日のエントリー「父の遺言書 /1943」でふれている、私の父・秋山喜世志の1945年の満映出向の事情と、父の語った(ほんの少しだが)敗戦後の状況が載っている。


「さくら天然色フイルム」満州へ渡るー満州映画協会への協力ー

満州国の治安と国境防備を担当する関東軍も、治安対策に映画の力が大きいことを認めていたが、昭和15(1940)年、「さくら天然色フイルム」が発表されると、白黒より迫力のある天然色によって映画をつくろうと考えた。
それでは、次に、「さくら天然色フイルム」の満州における活躍をつづろう。

甘粕元大尉と満映ーカラー写真による宣撫工作

昭和19年の秋、小西六写真工業株式会社軍需課(課長菊池時雄)へ、満州映画協会(通称満映、理事長甘粕正彦)から、「さくら天然色フイルムを使用して、満人宣撫映画をつくりたいという話がきた。この話は、岡田桑三(元映画俳優山内光)からであった。この折衝には課員の太田彦作が当たっていたが、話は次第に具体化し、技師長西村龍介が乗出すことになった。

昭和19年の暮れ、私は軍の飛行機で新京にいった。途中、つごうで米子に一泊したので、予定より1日遅れた。同地のヤマトホテルで甘粕氏に会った。小柄だが眼の鋭い人だった。甘粕氏は「社会主義者大杉栄殺し」の立役者であるが、このころ満州国に行って活躍していたのである。満州国の建国には陰で活躍した人で、そのため、私があいさつすると、「昨日きていれば、満州国の要人を全部集めていたので会わせられたんだが」と残念がっていた。 それはともかく、当社の「天然色フイルム」使用の話は進捗し、「映画よりもスライドがよい。その現場指導には当社の技師を送る」と約束して研究所に帰り、秋山(喜世志)、本間(鉄雄)、斉藤(金次郎)の3名を渡満させることになった。(西村龍介談)

せっかく国産初の「さくら天然色フイルム」が発売されても、当時の事情は一般民需に向けにくく、当社も、格好のはけ口としてこの話に乗り気になったのである。

「さくら天然色フイルム」によるスライドづくり

こうして、秋山喜世志ほか2名の満映出向が本決まりとなった。これについて、秋山は次のように語っている。

私と斉藤君は、20年2月のなかごろ、上野をたって新京に行きました。到着は2月25日でした。満映の人々は私たちを待ちかねていました。私たちの仕事は、宣撫工作の一環としてスライドによるニュースをつくるのですが、これを3色分解でやるのです。フイルムは35mmです。そのうち本間君がきました。4月ころだったと思います。

満映というのは、康徳4(昭和12)年 8月14日付の満州国勅令「満州国映画協会法」によって同月21日に設立されたもので、資本金は500万円(政府と満鉄の折半出資)。同6(昭和14)年11月、新京(長春)に広大な本社社屋とスタジオが完成し、元憲兵大尉甘粕正彦が理事長に就任していた。そして、組織は娯民映画部、啓民映画部、配給部、上映部の4部にわかれていた。理事長の人物からもうなずけるように、建国後まもない満州国の治安維持に活躍する国策会社で、実権が軍にあることはもちろんであった。
秋山らは、空襲もないのんきな環境のなかで、仕事を進めていた。が、いくばくもなく終局の日が訪れた。
敗戦当時の苦難に満ちた日々を、秋山は次のように追懐している。

甘粕理事長は終戦の当日だったか、青酸カリをあおって自決しました。満映は全部ソ連兵に占領され、私たちは社員クラブを出てアパートを借り、兵隊相手にこわごわ写真屋をはじめました。満映がなくなっては、これよりほかに収入を得る道がなかったからです。 そのうち、八路軍がはいってきてソ連と入れ替わり、新京の主人公になりましたが、そのおかげで私たちも仕事にありつけました。ソ連映画のコピーをつくるのですが、それもつかのま、今度は国民党軍が攻めてきました。私たちは八路軍とともに、ハルピン、ジャムス、ツルオカと撤退を重ねました。 ここで八路軍は、住民の悩みの種となっている匪賊の討伐に努力して、人気を高めてゆきました。私たちも、満映の器材をここまで運びましたので、宣撫用のスライドをつくりました。八路軍は中国人民解放軍と名前が変わって、次第に勢力を増し、ふたたび新京改め長春を国民党軍から奪還しましたので、私たちもここへ帰って、また宣撫用映画の制作をしていました。

こうして、満映派遣の当社社員は幾度か死線を彷徨したが、昭和28年、8年ぶりに無事祖国の土を踏んだのであった。



このインタビュー記事では、控えめにしか書かれていないが、父・秋山喜世志の小西六派遣の三人は八路軍とともに新京から奥地に撤収し、その技術を活かして宣伝映画・映像のための仕事を持続していた。その苦難はいかばかりのものだったのか、父がそれを語ることはなかった。その時、行動をともにした中国人の友人達と一生の友誼を貫いたのであった。

父のアルバムには八路軍時代の写真が何枚か残されている。

この2枚の写真は同じ頁に貼られていたものだ。1947年の写真とその30余年後の1978年の写真、父と中国の若い友人が写っている。写真の中国の友人から、1978年訪中時に再会、その時いただいたものであろう。

1947年、中国東北部の鉄道の駅頭で撮られたものだ。場所が特定できる写真はなかなかないから、この写真を載せてみた。「浩良河」とはどんな場所なんであろうか、想像をかきたてられる。

中華人民共和国が成立したのは1949年10月1日であった。長春の東北電映公司で帰国まで活躍することとなった。

日中間の国交が正常となり、その往来が可能になった直後から、父と中国の友人達の交流は復活した。文化大革命のような政情での中断はあったものの、それは父の死に至るまで続いた。

父の遺言書 /1943

Posted by 秋山東一 @ April 25, 2005 11:08 PM | TrackBack (0)
Comments

せんりの御いんきょ様、どうもです。
過去を捨て去る……、そして、未来に向かう……、なかなか出来ないことですね。私なんぞ今もって余計な物を囲い込んでおりますです。
未だ死生観……整わず……、がそうさせるのでありましょう。

Posted by: 秋山東一 @ December 24, 2010 06:45 PM

断捨離。来年の引っ越しを見込みそして過去を捨て去る 写真や過去の記録を殆ど捨てました。未来に向かって・・・

Posted by: せんりのいんきょ @ December 24, 2010 10:09 AM

浩良河 さん、はじめまして、こんにちは。
「浩良河」についてお調べいただき、ありがとうございました。「鶴崗」までお調べいただいたことも感謝です。
今もって駅があるとのお話、60年前、1947年に父がたった駅頭にたってみたくなりました。

Posted by: 秋山東一 @ September 10, 2006 01:46 AM

はじめまして。浩良河について。
以前、どなたかが指摘されたとうりですが、一言述べさてもらいます。鉄道地図などで調べました。

現在の地名は、黒龍江省伊春市南岔区浩良河鎮。
哈佳線(哈爾濱ー佳木斯507km)に浩良河と云う駅が今もあります。浩良河から佳木斯まで8駅~9駅くらいです。
浩良河駅の北隣の駅は香蘭です。今も香蘭の駅があります。

国民政府軍に追われて、「満映」が八路軍とともに、新京から鶴崗へ避難した。浩良河から鉄道で少し北へ行くと鶴崗がある。

Posted by: 浩良河 @ September 9, 2006 11:12 PM

丁度、『満州走馬灯』を読み終えたころ、「写真とともに百年」が掲載されて略地図などを眺めながら読ませていただきました。私の祖父家族は、安東の鴨緑河に近いところに住んでいたそうです。ですから安東という地名はとても良く耳にしていましたし、祖父の写真に撮られている大きな河もきっとそれなのだと思います。朝鮮にとても近いところです。亡くなった伯母は中学まで安東にいたようで、その時に近くの池が凍ってスケートをしたという話を聞かされていました。それよりもさらにずっとずっと北、大陸性の気候で本当に厳寒の冬だったのではないかと思います。
李香蘭の映画をいつだったかテレビで見て、満州のフィルムが見てみたいとその頃から思っていたりします。

Posted by: mitsubako @ April 26, 2005 01:56 PM

お父様の満映時代、敗戦後の話は時々伺っていたのですがこれほど詳しい内容は初めてです。1947年に駅頭で撮られた駅名「浩良河」の場所は手許にある中華人民共和国地図集で見ると、たぶん中国東北部黒龍江省、ハルビンの東東北300㎞くらいの所ではないかと思われます。松花江から少し北へ入った場所。写真の様子から見ると服装から、春または秋。駅名表示板の左に春蘭(浩良河の南隣駅)とありますから、おそらく東南を向き、人物の影から午前中9時以降に撮影されたものではないでしょうか?背後に写っている建物の窓ガラスもほとんど壊れていて戦後間もない頃のあたし達の通っていた小学校の窓を思い出しました。

Posted by: 阿M @ April 26, 2005 12:07 PM