| 1940(昭和15)年/春 | [ ABOUT , ALBUM , Camera ] |
結婚する前に、上野文子(ふみこ)さんを撮った秋山喜世志氏の写真は数少ないが何枚か残されている。
その中の一枚、アルバムに日付がないので定かではないが、1940(昭和15)年の春と思われる写真だ。ちょうど、私の母となる上野文子さんは20歳になるところだ。
まっすぐで丈夫そうな足は体育会系の証だ。
私の父となる秋山喜世志氏もがんばってプロモード全開の写真である。

24mm×24mmのボルタ版なるフィルムを使うカメラで、ベビィライカと呼ばれていたそうだ。
父はこのカメラの写真コンペに応募して入賞した……と言っていたが、[広告2]のアサヒグラフ・昭和14年3月8日号の広告に「懸賞冩眞募集」なるコピーがある。
[ごちゃまぜ歴史写真]より
● BOLTAX ボルタックス/広告1
● BOLTAX ボルタックス/広告2
私の父母は水戸の人であった。
その頃、父、秋山喜世志の父(私の祖父)は、米国西海岸で修業してきた写真師で、水戸に KADOFUJI(和名は不明)なる写真館を創業し成功を収めていた。又、父の母も米国帰りの活動家で、水戸で料理学校を開校していた。
父は写真館の跡取りとして東京写真専門学校を卒業、その後、小西六の社員であった。30歳近くなった父を結婚させるということになり、その相手としてピックアップされたのが、料理学校の生徒であった上野文子さんという、裁判所の吏員であった上野雅雄氏の長女であったのだ。
わきたさん、どうもです。
鯨尺……つながりで、どうもどうもです。太平用戦争後、母は一人で二人の子を育てなくては……というところで、厳しくなったのでありましょう。
父はそれなりに豊かな家で育ったようで……、妹が習うのを見ててか、ピアノが弾けましたですね。
少し、ブログの活動を休んでいたので、こちらのエントリーも拝読していませんでした。とても優しそうなお母さん…(まだ、独身でいらっしゃいますが)。とても、鯨尺…だなんて思えないのですが…。まあ、現実は、そういうものですね。ところで、秋山家には、どこかにアメリカの文化が流れているのでしょうか。当時、アメリカ帰りのご両親のもとで、お父さんはどのように成長されたんでしょうね…。そのようなことを考えながら、エントリーを拝読しました。
Posted by: わきた・けんいち @ January 24, 2011 01:23 PMalpshima さん、どうもです。
この写真と一緒の写真に、同じ場所で撮った上野文子さんの兄、上野厚氏の写真があります。
その頃、未婚の男女が二人きりで会うのは許されなかったのでしょうね。兄の付添でデートというようであります。
Fumanchu 先生、どうもです。
人に歴史あり……、皆いろいろですね。その時進行中の戦争に、これから、皆翻弄される運命にあるのですから。
お母上のこのようなお写真があるとは・・・、羨ましいですね。
時局ますます、暗雲立ち込める頃ですが、いっときの安らぎを求める青春の薫りも立ち込めていますね・・・。
昭和19年11月、先妻に死なれ、納骨を済ませ満州に帰るから父を、下関の宿屋で始め見た母の第一印象は、「旅館の客引きみたいな男だったので、一瞬このまま浜松へ帰ろうかと思った。」そうです。大分違う。
Posted by: Fumanchu @ December 11, 2010 08:42 PM