040316

万世橋駅

Place , TRANSPORT

manseibasieki_1.gifさいたま市に移転する交通博物館、その今の交通博物館の場所は、かって万世橋駅であった。

中央線の神田とお茶の水の中間、交通博物館の横を走る時、車窓から見える花壇状に見える部分がプラットホーム跡である。その下には、かっての万世橋駅が眠っている。
交通博物館のイベントとして2001年の10月には一般公開された。その外観は万世橋高架橋という煉瓦アーチ橋で、万世橋上からその美しい姿を確認することができる。

万世橋駅は1912年(明45)4月に中央線の始発駅として開業した。
開業当時、万世橋駅は日本で最初の駅前広場ができた駅なのだ。その駅前広場に日露戦争の軍神・広瀬武夫中佐と杉野兵曹長の巨大な銅像(戦後、戦犯銅像として撤去、その後行方不明)が設置された。駅舎は東京駅も手掛ける辰野金吾の設計で、駅舎内には1等2等待合室・食堂・バー・会議室等が設置され堂々とした風格を備えていた。

万世橋駅は、北の上野、東の両国、南の新橋と並んで西の大ターミナルステーションとして計画された駅であった。
その頃、須田町交差点は市電の交通の要であり、万世橋駅は人々が賑やかに乗降した。また1927年(昭2)には浅草から上野にかけて東京で最初の地下鉄が開業した。その後延長して、現在の万世橋下を掘削して貫通したときは、川の下を電車が通ると大いに話題になった。

しかし、1914年(大3)帝都の中央駅として東京駅が開業し、1919年(大8)中央線の万世橋—東京駅間が開通すると万世橋駅は単なる途中駅となってしまった。
1923年(大12)の関東大震災により、さしもの万世橋駅も火災によって全館が焼失した。その後、再建されるものの往時とは比較にならない小駅となってしまった。

1936年(昭11)東京駅の北側高架下の鉄道博物館(戦後、交通博物館と改名)が、この地に新館として建設された。現在のバウハウス風の建物がそれである。その後、鉄道博物館施設の一部として営業されていた万世橋駅は、戦時中の1943年(昭18)に廃止された。

1952(昭27)銅像なき後の駅前広場に交通博物館別館が増築された。いつのまにか、そこが万世橋駅であったことも忘れられ、秋葉原のはずれ、交通博物館の場所ということになった。

●その交通博物館が移転した後、この跡地はどうしたらいいのであろうか。

唯一、交通博物館の跡地計画についての記述が、もう10年以上も前の本だが明確に記述されている。伊東孝氏の[東京再発見]岩波新書だ。

................... 最後に万世橋界隈の再生計画の提案をしておこう。 交通博物館も手ぜまと聞く。そこで交通博物館を移転し、川沿いに歩行者プロムナードのデッキをつくり、高架下の空間をしゃれたリバーサイド・レストランやブティックにすること。人の流れを昌平橋までひきつければ、お茶の水は、すぐそこ。神田須田町や淡路町界隈には、こぎれいでおいしい食べ物屋も多い。若者にも、人気がある。 ウォーターフロントをもつ高架橋が、カルチェラタンのお茶の水と"電脳都市”秋葉原とをむすびつける。明治から現代までの時間を、魅力的に凝縮した空間ができあがるのだ。

伊東 孝著 [東京再発見]-土木遺産は語る- 岩波新書  47頁〜48頁

伊東 孝著 [東京再発見]-土木遺産は語る- 岩波新書


ずいぶん前だが、伊東孝氏が主宰する「東京の橋研究会」のイベントで、船に乗って、佃島から船に乗って、日本橋から飯田橋へたくさんの橋をくぐり、お茶の水からまっすぐ神田川を昌平橋、万世橋へと見学したことがある。この交通博物館の万世橋高架橋のレンガのアーチ橋が続くのを、船上から見たことがある。その時、東京って結構豊かな水の都市なんだと感じた。

交通博物館のあの場所が「万世橋駅」として帝都東京の中心だった証を、その遺構を活かして、ウオーターフロント、水運の神田川と一体になった計画としてよみがえらせることができる。カルチェラタンお茶の水、神保町、電脳世界の中心、秋葉原、江戸情緒を色濃く残す周辺の神田須田町、神田淡路町を含めて新しい東京の中心を作り出すことができるかもしれない。

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第174回都市経営フォーラム/2002年6月20日/における、法政大学建築学科教授陣内秀信氏の講演「東京を川から見る−都市再生に向けて」が、東京全体における視点で語られている。

http://www1k.mesh.ne.jp/toshikei/174.htm

伊東孝氏、日大理工学部教授の最近の活動「勝鬨橋をあげる会」のウェブサイト

http://homepage2.nifty.com/pont/katidoki/index2.htm

万世橋駅周辺は、昭和初期までは新橋、新宿、上野に負けない大きな繁華街だった。
その名残を池波正太郎と歩く。

http://www.tokyo-kurenaidan.com/chiyoda2.htm#renjyaku

国立科学博物館のウェブサイトの地震資料室、1923年の関東大地震(関東大震災)の写真がある。
「神田・お茶の水」の中に、万世橋駅の震災前、震災にあった万世橋駅の写真がある。

http://research.kahaku.go.jp/rikou/namazu/index.html


追記 120704

東京新聞に「万世橋駅を新名所に」なる記事が……。
東京新聞:万世橋駅を新名所に:社会(TOKYO Web)

 かつて首都の中央駅の役割も担った万世橋駅(東京都千代田区)のホームなどの遺構が整備され、来年夏から一般公開されることになった。JR東日本が三日発表し、「歴史的資源を生かし、街のにぎわいづくりに貢献したい」と話している。

 万世橋駅は一九一二(明治四十五)年に開業した。当時の中央線のターミナル駅で、二年後の東京駅開業まで首都の中心駅だった。駅舎は赤れんがの二階建てで、東京駅と同じく建築家辰野金吾が設計した。

 関東大震災(二三年)で初代の駅舎は焼失。交通博物館(現・さいたま市の鉄道博物館)も併設されたが、中央線の東京駅乗り入れに伴う利用者の減少により、四三年に廃駅になった。

 JR東によると、遺構として残る約百四十メートルの旧ホームや階段を整備して、回遊できるようにする。旧ホームに約六十メートルにわたる展望カフェや屋外デッキも設置し「駅だったことを体感できるようにする」と話す。

 高架下(千六百平方メートル)は商業施設にして、北側の神田川沿いに親水デッキ(約百三十メートル)を設ける。
Posted by @ March 16, 2004 10:50 PM
Comments

タチカワオンラインという[多摩・武蔵野の情報誌サイト]に[建築家酒井哲]というコラムがある。

そのバックナンバーに面白い記事があった。
http://www.tachikawaonline.jp/sakai/back005.htm

「〜〜日野駅舎〜〜民家風デザインの謎」という記事だが、日野駅舎のデザインの分析し、その設計者を国鉄の建築技術者で後の日本建築学会長を歴任した伊藤滋氏と推理している。

そこで初めて、現在のお茶の水駅・交通博物館(旧万世橋駅)の設計が伊藤滋氏であることを知った。
その頃、分離派、タウト来訪、そんな時代の建物と知る。

Posted by: 秋山東一 @ April 1, 2004 02:37 PM