阪神・淡路大震災 | [ THINK ] |
今日1月17日は「阪神淡路大震災」の9周年だ。
あの日、朝のテレビを見ていた小学生の息子が「お母さん、これなーに」と聞いていた。朝食を準備中の母親は「チェチェンでしょ」といい加減に答えていた。テレビの画面には黒煙を吹き上げる火災の様子が映しだされていた。それも何ヶ所もの火災をだ。そのテレビに気がついた声、「あなた、大変」の声で飛び起きた。
1995年の1月17日の朝は、そんな風景から始まった。
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その大きな被災状況が分かり、現地では混乱が続いていた数日後、フォルクスハウスの共同開発者の菅波貞夫が云った「秋山さん、行ってみましょう。テレビは壊れた家は見せてくれるが、壊れなかった家は見せてくれない。きっと、壊れなかった家はあるはずです」
そうだ、行って見よう。
とにかく、神戸に行ってその状況を直接見てみようと考えた。
同行者は菅波、構造設計家の小野茂氏、近鉄に乗り換え奈良に向かう。奈良の芸大同期の浅井氏のお宅に一晩泊めていただき、22日早朝から行動しようという計画だ。
22日早朝、奈良の浅井宅を出発する。私、菅波、小野、そして浅井の四人で、JRで大阪へ、梅田から阪急電車で、その時一番神戸近くまで行ける駅、西宮北口に向かった。車窓からは所々に壊れた家を見かけるが、それほどの被害を感じさせない。
10時、西宮北口から阪急神戸線の沿線を神戸に向かって歩き始めた。
道路脇の破壊のすざましさの中を歩く。鉄道もその高架部分も、破壊された横を進む。家もビルも、そこに住んでいた人たちの今を考える。すざましい破壊の風景と、それを見ている自分たちの落差を考える。
途中、浅井は戻った。なにかの拍子に小野氏とははぐれてしまった。
途中、芦屋の建築家・小林恒氏の事務所を訪ねる。氏の設計した自宅と事務所のあるアシヤフラッツは何の問題もなく無傷なのに、その隣のマンションは傾いているのは奇妙な風景だった。小林夫妻は大阪に避難されていてお留守であったが、スタッフの方々にお会いする。
携帯電話を持っていったが、通話状況は悪かった。途中、東京の大行と繋がった。
大行からは新神戸から地下鉄で有馬温泉方面に出て三田に抜けて大阪に帰るというルートがあるということを教えられた。まっすぐ歩いて神戸三ノ宮あたりまでで野宿かと覚悟していたが、どうもその必要はないらしい。
たくさんの被害、破壊を目にした。たくさんの方々の避難の姿を目にした。
そして、壊れなかった家々を、見ることができた。
夕方、20数キロを歩いて神戸三ノ宮に到着した。
暮れかかった道を新神戸方向に歩く。新神戸で六甲山を貫く地下鉄に乗る。10分もかからず六甲を抜けたその向こうには、地震の被害もなにもない風景があるのがひどく不思議であった。
どうにか三田から大阪に帰りついた。着いたホームで偶然にも芦屋の手前ではぐれてしまった小野氏と再会、彼はこれから夜行で帰京するのであった。
大阪駅で運よく駅上のホテルを確保できた。ゆっくりと疲れた足を伸ばしビールを飲む。
長い一日が終わった。
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いつも、こんな機会に建物の構造的な安全性が話題になる。住宅に限っても、それは最上位の必要事項でなければならないはずである。法的な適合性や、施工者の判断によりかかったままの設計者に「それを自分で考え、自分で判断しなければならない」と申し上げたい。
地震で壊れない、少なくとも地震で人が傷つくことがない居住環境は、最低限必要な性能である。
わたしは、1/17をわたしの防災の日としています。
生き延びるために何かをするというより、自然には逆らえないということを確認する日です。
親戚一同東京住まいのわたしにとって、身近な被災はほとんどありませんでした。
でも、テレビが震災を報道しなくなってもわたしは忘れない。
人が自然を克服するなんておこがましいということを。
忘れようもない。この日はわたしの誕生日だから。
あの日以来、前日から震災の報道をするので
誕生日はちっともめでたくない日になり、
わたし自身も誕生日をよろこぶ年令ではなくなり、
ただ、震災の日に生まれたまだ誕生日のうれしい子供たちが
手放しで喜べないおとなに囲まれているのはかわいそうだなと思います。