031006

三原橋

Architecture , BARRACK finder , Place

もう16年も前、1987年、居酒屋「傳八」銀座店の内装を設計した。

Be-eater に「傳八」の話をのせたが、そこに書いた「・・・・この傳八銀座店のある建物、これが奇妙な建物なのである。」を BARRACK finder してみようと考えた。

DENPACHI_7.jpg銀座4丁目の交差点から晴海通りを歌舞伎座方向に向かう。

左側を歩いていくと白井晟一の親和銀行の先に2階建ての建物がある。
一階は小さな店舗が並び、その二階に傳八が入っている。背の高い周辺のビルに不釣り合いな2階建ての建物である。

晴海通りの向い側を見ると、外観の意匠はいじってあるが、まさしく同じ2階建てがこちらを向いている。道路を挟んで双子のビルがある、それは不思議な風景だ。

DENPACHI_0.jpgここの地名は三原橋という。

4丁目から来ると、そこはなだらかに上り、なだらかに下る、むくりがついているような路面の様子はそこに橋が存在していたことを示している。ちょい先の晴海通りと昭和通りの交差点を三原橋と呼ぶが、本来の三原橋はここである。

傳八の建物の裏側に廻ると、大きな階段、そこには地下道があるのだ。

双子のような向い側の2階建てのビル、その二つの建物をつないだ地下道が、晴海通りの下にあるのだ。地下道にそって地下街、そこには映画館があるのだ。

DENPACHI_8.jpg三原橋の名の通りそこに川(掘割)が流れおり、橋もそこにあったのだ。

太平洋戦争で焼け野原になった銀座、その瓦礫を銀座通りと平行に流れていた三十間堀川(堀割)に埋め、それによって造成された土地を売ってその費用を捻出する計画が1949年実行されただったんだそうだ。何か利権が絡んだ事業のような気がするが……。

「日本映画100風景」というサイトに川はないけど橋はあるという写真があつた。道路は今の半円形の不思議な形がすでに出来上がっている。階段を下がって橋の下を横断地下道として使っていたのだろうか。

DENPACHI_2.jpgその双子のビルの傳八のある方が昔の面影を残していると思う。モダンデザインの近代建築なのである。

平面は晴海通りに面した側は直線だが裏側は道路に沿って曲面を描く。その曲面の裏側に地下道への入口がある。
晴海通り側のファサードは大きな開口部が並んでいるが、傳八のの店舗に改装する際、窓枠はスティールで作り直した。隅部は躯体にあわせて丸め、横方向を強調した意匠に変えた。

コルビジェ風の屋上があり、いかにものという感じの屋根がある。バラックなペントハウスがあり、傳八開店後、離れって感じの部屋に改装した。

DENPACHI_6.jpg傳八側から地下街に下りると、右側に映画館が並び、左側に小さな店舗が並ぶ。小料理屋風の飲み屋が数軒、ポルノショップ、床屋と並ぶ。なにか昔のままだ。

映画館は「シネマパトス」、1,2,3と3っの映画館がある。昔はポルノ映画専門だった記憶があるが、今は名画座という感じである。

地下道は未だレトロなまま、ここ三原橋の記憶を保っている。

DENPACHI_1.jpgなくなってしまった掘割と橋があったことを記録する為、この施設が作られたのではないかと想像している。

この辺り、妙に「中古カメラ屋」が多いのが不思議だが、昔の「ヤミ市」的な雰囲気を漂わせている。

銀座は、戦後の焼跡から復活、その後、何クールかの変遷を遂げてきたはずだが、未だ、この辺り戦後そのものの風景があるのだ。


追記 050417

17日付でコメントしてくださった Toshimiya さんが調べてくださったのだが、この建物の設計者は土浦亀城で1952(昭和27)年12月竣工だそうだ.このフラットルーフの国際様式はただ者ではないと考えていたが、やっぱり、そうかという思いである。知る人ぞ知る、という話かも知れないが、これはもうちょっと大事にせねばという感じがしてきた。

というわけで、突然、カテゴリーに Architecture を加えた。


追記 050418

STUDIO B-104 MEMO に archim さんよりコメントがあった。
「建築雑誌「スペースデザイン(SD)」1996年7月号の特集「再考 建築家土浦亀城」にある論考「初期モダニズムと建築家土浦亀城」のなかで、三原橋センターについて触れられています(pp19-20)。地下街の設計図面も載っています。」とのことである。


追記 091227

今年2009年の9月、masa さんの「Kai-Wai 散策」で、現代の三原橋の写真が登場、びっくりしたのである。

 ● 昨今の三原橋 - Kai-Wai 散策


追記 100411

この三原橋の1965年の姿を発見した。
 ● aki's STOCKTAKING: 三原橋 /1965


追記 100514

讃岐ベーハ帝国のダース・ベイダーじゃなかった、王国の王様、ShopMaster が地下の映画館シネパトスについてエントリーしている。
 ● ShopMasterのひとりごと : シネパトス


Posted by @ October 6, 2003 12:00 AM
Comments

メンバー 200人
近代建築、現代建築、古建築の都市散策及び建築見学(屋内)をし
ています。
建物を通して関西の都市文化にも関心を深めています。
毎月、第二土曜日、現地に集まり、関西の近代建築物 (駅舎、喫茶
店、大学、学校、和風建築、寺院、寺社、産業遺跡、教会、銭湯、
醤油醸造会社、酒造会社、を含む)を中心に、数寄屋建築、民芸建
築、遊郭、日本庭園、古民家、伝統建築、町家、長屋、茅葺民家、
映画館、老舗料亭、老舗旅館、寺内町、史跡、資料館、美術館、博
物館、企業博物館、橋、戦争遺跡、廃線跡、廃墟、安藤忠雄の作
品、古建築巡りなどの都市散策をし、その後飲み会を行っていま
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る方に限定します。
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近代建築探検家クラブ関西本部
bikara_2@hotmail.com
びから たいしょう
http://circle.excite.co.jp/club.asp?cid=i2600449
googleでの当サークルの評価は五つ星☆☆☆☆☆です。

Posted by: 近代建築探検家クラブ関西本部 @ December 10, 2005 04:49 PM

小道さん、はじめまして、こんにちは。

傳八が近代建築探訪者の皆さんのご愛顧をいただいているとの話、大変うれしく思っております。先日、建築家協会の小さな会合があそこで開かれたのですが、誰もこの建築の由来を知りませんでした。

ウェブサイトを拝見しましたが、すばらしく濃く、面白く拝見しました。私も BARRACK finder で路上観察をしています。近々、アースダイビング大会を開こうと思っています。

Posted by: 秋山東一 @ October 8, 2005 09:19 AM

秋山さん はじめまして

飲める近代建築探訪者の小道と申します。
私たちはオフ会も、そこらの居酒屋ではブーイングが起こるし、町歩きの最後はレトロな銭湯じゃないと気分が悪いし。
という探訪仲間連たちは、でんぱちなどをセレクトしてやると泣いて喜ぶんですよ。あの窓なんてカッコイイです。
双子のはずなのに、でんぱちのある建物のほうが、かっこいい理由がわかりました。写真を撮るのも、なぜかでんぱちのほうです。また、オフ会しなくては。

Posted by: 小道 @ October 8, 2005 07:37 AM

いのうえさん、こんにちは。

小道さんのコメント、「........でんぱちは、近代建築探訪仲間の間では「飲める近代建築」として愛されています。」は、とてもうれしいお話です。

傳八があそこにオープンして18年も経ちますが、その頃、土浦亀城の仕事であることも知らず、本来はこうであったのであろう、外回りを角はアールをとりスティールでサッシュを作らせました。しかし、予算もあり復元というレベルにはいかず、どうにかカッコだけはつけたという感じです。まぁ、その後、一度もメンテしない店主にも困ったものですが、変わらぬご愛顧をお願いしたいものです。

Posted by: 秋山東一 @ October 7, 2005 03:34 AM

Akiさん こんにちは! 本日この界隈に行ってきました。そして傳八、外からですが見てきました。「飲める近代建築」として有名・・・ だそうで さすが友と酒を愛する秋山さんだ!と変なところで納得してしまいました。ツインビルを結ぶ地下道を拙ブログでエントリーしましたので、トラックバックさしあげました。

Posted by: いのうえ @ October 6, 2005 11:54 PM

ご報告
こんにちは。Toshimiyaです。「傳八」銀座店、行ってまいりました。AKiさんのブログを見ていなかったら、あの辺りについて興味を持つことはなかったかもしれませんし、今回、銀座に残されている歴史(の派手さのない部分)に少し触れることができたような気がします。お店、良かったです。
また、遊びに来ます。

Posted by: Toshimiya @ April 17, 2005 01:13 PM

「・・・数寄屋橋という橋が本当にあってその下を掘り割りの水が流れていて三原橋も橋であり、その下を流れる水と数寄屋橋の下を流れるのを別な掘り割りが縦に繋いでいる銀座だったのだから今と昔とどっちを本当と考えたものか解らない気がする。今の方が幻ではないにしても嘘だということはある。その頃は東京の下町がどこもそうして川か掘り割りで区切られていて空から見れば道路よりも縦横に流れる水が網の目を張り廻らせていて東京は世界でも橋が多い町だった。そういう町だったからかどうなのか兎に角銀座も賑やかなのよりも明るくて静かな町で人にぶつからずゆっくり舗道が歩いて行けた。それだから店の窓の前に立ち止まってそこに出ているものを眺めることも出来た。」 吉田健一「東京の昔」

Posted by: 秋山東一 @ October 6, 2003 11:11 AM

銀座周辺の首都高速はたいてい掘割や川を埋め立てたかその上に作ったものですね。新富町の中央区役所の裏手あたりにも怪しい空堀があります。もとは川だったところをなぜかせき止めて今は使っていない。トンネルをふさいでいたりする。カーブが急なのと深いのでこれは川だったということがわかります。昔の江戸の堀は水運すなわち物流の幹線だったんですね。そして銀座は江戸湾の遠浅の入り江の浅瀬にあった。そこを掘削して水運の路を作った。
大昔には有楽町の丸い日劇の前にはまだ数寄屋橋があったような記憶がある。銀座と言うと水と柳と藻の匂いのイメージで、水が流れない淀んだ掘割が浮かぶ。
三原橋のあの通りを新橋寄りに進むと、道路から半分下がる半地下の公衆便所があったり、外国系商人の事務所があったり、堀にそって人間ドラマがくりひろげられたらしい跡があります。それがいつのころか首都高速で蓋をされた。あのあたりは首都高速公団ではなくなにやら株式会社になってます。どういう事情があったのかは知りませんが関係あるかもしれません。

Posted by: yas @ October 6, 2003 09:56 AM