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東京芸術大学 建築科教室 / 昭和40年度 設計製図計画表

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現在、住まいマガジン びおで連載中の「aki’s STOCKTAKINGをstocktakingする。」だが、4回目の藝大建築科の諸々を書く為にこんな書類を探してきた。

昭和40年、1965年には、パソコンもワープロもないから手書き、コピーするってジアゾ式の青図か白図……、そんな時代の物なのだ。

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私が東京藝術大学美術学部建築科の4年生になった時、1965年の建築科教室全体の設計製図の計画表……カリキュラムだ。

1964に出来た大学院も、院1年・院2年と揃い建築科教室全体の形式的体制が整った時だ。
院2年には後に藝大教授になられる益子義弘氏、金沢工業大学教授になられる水野一郎氏、大分で活躍された故・山口隆史氏の三人がおられた。院1年に日建設計の社長になった中村光男氏や、東北工業大学教授になられた材野博司氏が入ってきた年であった。

教授陣も吉村順三を頂点に、天野太郎、山本学治、茂木計一郎、奥村昭雄、前野まさる、藤木忠善と揃い、吉村スクール全盛の時代だ。

私は4年生、これから実測……で藝大音楽学部にあった奏楽堂の実測……、手抜きでパイプオルガン部分の展開図を描いた、美濃紙に墨入れという作業であった。

その後の「ハウズィング」は横浜本牧を敷地としたものであった。そして卒業制作という段取りとなる。

私が在学していた6年間、1年から3年までの設計課題は基本的には同じだった。

最初、1年生は現実の設計図面をコピーするという作業から製図というものに習熟するところから始る。大判のケント紙に墨入れ、まずは鉛筆で描いてから始める。あの頃、ロットリングなんてお道具はなくて烏口、かろうじて学校から支給された Pelikan Graphos なるお道具があったくらいだ。

このコピーなる訓練……、絵画の訓練である「模写」からきているのではないかと、後年気が付いた。

この年の課題は、桂離宮、吉村の軽井沢山荘、金工科教室となっているが、構造の異なる建築の図面を三種類ほどやったと思う。吉村の山荘は私達のクラスが初めてだったように思う。

それが終わって、椅子の設計製作となる。私達の時だけ、椅子ではなくて窓回りの製作……、がっかりして何もしなかったなぁ。この設計課題は実際に製作する、それも木工室があり、そこに指導する教官がいるという藝大ならではの課題だ。

2年になって、まずは、上野公園内で展示場をやって、初めて住宅の設計となる。1年間に三つの住宅をやることになる。夏前の「リピーティング」なる課題は住宅のエスキスだけを繰り返すという課題だったと思う。

3年は公共建築、中学校、体育館、オフィスビル、古美術研究旅行の後、音楽堂とある。私の3年の時は山荘だった。

1年から4年、各学年毎の問題、各人の問題というわけではないのが藝大建築科だ。この全てに学校全体が巻込まれて進んでいく……という感じなのだ。

他の大学・学校のことは知らないが、きっと藝大建築科のカリキュラムはいろいろと違っているのではないかと思っている。始まりが1年生からと早い……受験時からそれは想定されているように思える。
それに、住宅設計の重視……、なんだろうな。ちゃんとした住宅が設計できないと、大きな物もできないよ……なんて聞いていたように思う。

Posted by 秋山東一 @ January 12, 2018 06:32 AM | TrackBack (0)
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