061016

雪に生きる

BOOKS , SELFBUILD/DIY

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週末住宅を Be-h@us でハーフビルドしようと構想しているMさんご夫妻とお会いした。

奥様ともども、ビールを飲みながら、なんたかんたとお話して、さてお暇となった時、この一冊の書籍をぐいとおしつけらたのであった。さーて、この書籍は何物、結構な古本状態で、付箋までついている........。立派な箱入り、布装の500頁を超える書籍なのだ。

さーて、これは「これで勉強してね」のMさんのご指示ということなのだ。

本書、定本「雪に生きる」の著者は猪谷六合雄(いがやくにお)氏だ。
1971(昭和46)年に、実業之日本社から出版された。本書は1943(昭和18)年に出版された同名の旧著を改訂して「定本」として復刊されたもののようだ。

猪谷六合雄氏は1986年、96才というお年でお亡くなりになった。その時、日本のスキーの父、そしてオリンピック銀メダリストのスキーヤー猪谷千春氏の父上として報道されたのが、私にとっての記憶だ。

この定本「雪に生きる」を、開いた途端に、これはとんでもない人間の記録であることがすぐに分かった。

猪谷六合雄氏は1890(明治23)年赤城山頂に生まれる。
日本にスキーなるものが紹介されたのは、1911年、新潟県高田市でオーストリアのレルヒ少佐が実演したのが始まりだが、その3年後の1914年、赤城山頂の猪谷旅館の氏は、宿泊客のスキーを見た時から、そのスキーの為の生活「雪に生きる」が始まったのだ。
生まれた赤城山から千島に、再び赤城山から乗鞍へと移り住み、その都度、ゲレンデを作り、小屋を建て、スキーを研究し練習する生活が続くのだ。

氏の凄さは、それを成し遂げたという以上に、あらゆる事象に関心を持ち、それを観察し探求し、それを独学独習してきたことにある。スキー、写真、小屋、車、靴下.......それら全てを極めたのだ。氏にとって事の大小、事の軽重にはなんの興味もない、ただただ、自分自身の関心の赴くままなのだ。

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目次
第一編 赤城山時代
 スキー揺籃時代
 スキー行脚
 スキージャムプ入門
 スキージャムプ練習時代
 二つのジャムプ大会
 赤城山を出る
 北海道へ渡る
 阿寒附近
 摩周湖

第二編 千島時代
 千島へ渡る
 古丹消へ移住する
 畑を作る
 島の魚
 鼠の話
 二年目の冬
 靴下の表
 島の思い出
 老漁夫の死
 小屋の火事
 滝の下の小屋
 膝関節の半脱臼
 千島を去る

第三編 再び赤城山時代
 再び赤城山へ
 湖に親しむ
 万座、白馬
 山歩きとゾロ
 闇夜の山下り
 雷
 ヒマラヤ入りの計画
 最後の冬
 千春入学
 湖で溺れた人
 
第四編 乗鞍時代
 番所へ移る
 野麦へ
 小屋を作る
 第二の冬
 乗鞍とスキー
 ゲレンデの藪払い
 石割
 大町の大会
 乗鞍のスキー春夏秋冬
 新コース
 頂上のゲレンデ化
 盗人君を泊める
 日光の大会
 最後のシーズン
 子供の躾
 私と鏡

第五編 山小屋その他
 私の山小屋について
 小屋二つ
 薪切り台
 着物の順序
 靴下の表の説明
 
 著者略年譜


本書が「雪に生きる」の改訂版として、1971(昭和46)年に出版されるに際して、[定本「雪に生きる」に寄せて]と題する一文に猪谷六合雄氏は書かれている。

.........はじめから決して人と変わったことをやりたいなどとは考えていないのに、夢中になってそれに没頭しているうちに、いつとはなしに少しずつ変わった形になって行く。
 そのなかには、変わったために何程かよくなったと思われるものも多少はあるかも知れない。元来私は、何をしても面白いので、おかげで退屈しないですむが、残念なことに大事と小事の選択を考えないでしまう欠点がある。例えば日常の生活に使う、ちょっとした小道具が古くなっていたんだりすると、それが買えば二十円か三十円でどこにでもあるようなものでも、どう直したら元通りに使えるようになるだろうと考えて修理してみる。それは無論損得ではなく、勘定してみたら損にきまっているのだが、現在手元にある材料と道具を使って、これが自分の力で役に立つように出来るかどうかということが問題なので、それで喜んだりがっかりしているのが常である。
 ............

本書の第四編、その最後の章「私と鏡」に、ご自身の内省というべき記述がある。

子供の時の思い出として、氏が赤城山頂にいた幼少の頃の一人遊びを回想された後、次のように記述しておられる。

...........
 遊びと仕事 それでは、それから四十何年か経った今、番所で小屋を作ったり、ゲレンデの開拓をしたりするのも遊びだろうか。もしも遊びというものが、炬燵でトランプをしたり、酒亭で高吟乱舞したり、また同じ汗をかいても、野球や庭球のようなものであって、仕事というものが、山で炭焼きをしたり、畑を作ったり、また工場で汗水流して働いたり、研究室でむずかしい問題の試験に没頭したりするようなことであるとすれば、番所の生活は後者の仕事と一致する点がはなはだ多い。それは、大人になった為、することの手続きがだんだん複雑になって来てはいるが、その自分の力を、ものに映して、そこに現れてくる姿を見ることの興味という点では、子供時代の砂浜の水遊びと全く同じ気持の行き方であると思う

 実際のところ、私には遊びと仕事の区別が、本当によくわからない。どうも私がやると、たとえこの頃の増産の為、隣組で割り当てられたジャガ芋を作る為の畑を、山の荒地に、手に肉刺を作りながら掘っていても、それがどこやら「お百姓ごっこ」のような感じがするし、夢中になって夜の目を寝ずに、靴下の目数の計算に没頭していても、それは「編み物ごっこ」のような気がする。昔、赤城山で、大真面目で宿屋の経営をしたり、ジャワの南海岸の無人境へ高瀬貝を見つけに行ったりしても、それぞれ、「宿屋ごっこ」に近かったり、「探検ごっこ」であったりしたように思う。家を建てれば「大工ごっこ」になり、子供にスキーを教えながら育てて行けば「教育ごっこ」になってしまいそうだ。.........

猪谷六合雄を知らなかったことは迂闊であった。ネットで検索したところ、INAX出版から「猪谷六合雄スタイル /生きる力、つくる力」が出ていることを知った。本書はセルフビルダー、小屋を作り、キャンピングカーを作る猪谷六合雄の話だ。「雪に生きる」の第五編、「私の山小屋について」が転載され、多数の大きな写真で氏の物作りの一端が理解できる。


aki's STOCKTAKING: 雪に生きた八十年
aki's STOCKTAKING: 猪谷六合雄スタイル

Posted by 秋山東一 @ October 16, 2006 09:36 AM
Comments

猪谷六合雄の名前、「六合(りくごう)」とは天地と東西南北、「考えられる全世界としての宇宙」の意味だそうだ。

このような人物が身近にもいるのを思い起こした。
私の父、秋山喜世志もそのような人であった。それに、奥村昭雄・まことご夫妻もそのような人である。

Posted by: 秋山東一 @ October 17, 2006 06:15 AM

alpshima さん、どうもです。
猪谷六合雄氏にスキーの手ほどき..........、やぁ、これぞ王道というべきではないですか。今の天皇皇后も氏にスキーを習っているようです。
この本で初めて知ったのですが、猪谷六合雄のエネルギー、どこからか分かりませんが、すごいというか、すさまじいというか、圧倒されてしまいました。その風貌、サンタクロース.....もすごいですね。

Posted by: 秋山東一 @ October 17, 2006 05:42 AM

fuRu さん、どうもです。
「いがや」とスキーが結びつかないのは、世代のせいですね。私くらいの世代にとっては、「猪谷」とスキーは分かちがたいものです。
しかし、猪谷六合雄氏に関して、今回、私は知ったわけですが、すごい..........ですね。

Posted by: 秋山東一 @ October 17, 2006 05:33 AM

akiさま
私、中学の時、猪谷六合雄氏にスキーの手ほどきを受けましたが、その風貌たるや温和な笑顔に満ち子供にとってはサンタクロースそっくりさんのお爺さんでした。後に彼の生涯を知るにつけ、その楽観さと自由奔放さに感動しました。
今でも石の湯ゲレンデの雪に熊笹を挿してスキー回転のポール代わりにしたのを、印象深く覚えています。

Posted by: alpshima @ October 16, 2006 11:13 PM

先日、教えていただいてすぐに猪谷さん関連の本を二冊ほど探して読みました。
秋山さんも紹介されているINAXの本と高田宏さんが書かれている本です。
この「雪に生きる」は現在入手困難になっていますね。
ちなみに、この本の「乗鞍時代」の舞台である番所という場所には、武蔵美のワンゲルが管理しているセルフビルドの山小屋があります。今は二代目になって場所も変わってしまいましたが、初代山小屋は猪谷六合雄さんが開拓された、村営いがやスキー場に隣接して建っていました。
そして、そこがなぜ「いがや」と呼ばれているのか、つい先日、秋山さんに猪谷さんを教えていただくまで知りませんでした。恥ずかしかぎりです。

Posted by: fuRu @ October 16, 2006 10:18 AM