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木曽五木

Architecture

秋篠宮家の長男の名前が「悠仁(ひさひと)」と決まったそうだ。また、身の回りの品につける「お印」は「高野槇(こうやまき)」とのことだ。

ところで、この「こうやまき」は木曽五木の一つなのだ。「檜(ひのき)」「椹(さわら)」「高野槙(こうやまき)」「翌檜/檜葉(あすなろ/ひば)」「杜松(ねずこ)」を木曽五木という。いづれも常緑針葉樹であり、江戸時代には伐採が制限されたためにこの名前が残った。五木の内、高野槙以外は【ヒノキ科】だが、高野槙 Sciadopitys verticillata は【コウヤマキ科】である。他の四種と葉の形がまったく異なる。

木曽五木の由来

慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いは徳川方が勝利をおさめ、木曽谷の森林伐採が急激に増加しました。主に築城・武家屋敷・造船などにしようされ、森林資源が急速に失われていきました。そのため尾張藩は寛文五年(1665年)留山・巣山の立入禁止、または伐採禁止林を設け、藩以外の伐採を厳しく制限しました。
 宝永六年(1708年)には木曽谷全域にわたり貴重な木材であるヒノキ・サワラ・アスナロ・コウヤマキの四木の伐採が禁止され、さらに亨保十三年(1718年)にネズコを加えた五木が地元住民の伐採禁止木となり、この停止木(ちょうじぼく)が後の木曽五木の由来になったのです。こうした度重なる保護政策にもかかわらず木曽の森林荒廃は止まることなく、以後クリ、マツ、カラマツ、ケヤキ、トチ、カツラも「留木」に指定され、伐採禁止の地域や樹種はさらに拡大しました。
 当時赤沢自然休養林一帯は「留山」に指定され、「檜一本首一つ」とまで言われた厳しい保護政策が、現在の美しい天然林を残したのです。

木曽五木とは - 志水木材産業
檜創建 ●木曽五木とは


ちなみに、私の「お印」はこれである。

Posted by 秋山東一 @ September 14, 2006 08:37 AM
Comments

iGa さん、naka56 さん、どうもです。
父親である秋篠宮の「お印」は「栂(つが)」だそうですね。

Posted by: 秋山東一 @ September 17, 2006 01:13 PM

Aki先生、お世話になります。
そう、私たちも斉藤さんから教わりました。
あの時教わった一つ“高野槙(こうやまき)”が今回の・・・、なるほど、そうだったんですね。
おじゃましました。

Posted by: naka56 @ September 14, 2006 04:36 PM

そういえば奈良井で、木曽五木の中で一番似ているヒノキとサワラの簡単な見分け方を斎藤さんから教わりましたね。

Posted by: iGa @ September 14, 2006 09:13 AM