041206

「コミュニスト風の子供」

THINK

s_linux_communist.jpg中沢新一の「僕の叔父さん 網野善彦」に、著者自身のことを「コミュニストの子供」と書いている。
これは親がコミュニストで、その子供という意味だが、地元のK醸造工場をめぐる少年コミュニストらしい冒険も書かれている。

友人の玉井一匡氏に、やっぱり君も「コミュニストの子供」なんだ、と言ってしまった。

実は私も「コミュニストの子供」であったのだ。

といっても中沢新一や玉井一匡のような筋金入りの「コミュニストの子供」というわけではない。まぁ、「コミュニスト風の子供」という程度であるのだ。

1951年、私が小学4年生の時、大正天皇の夫人、貞明皇后(現平成天皇にとっては祖母にあたる)が亡くなった。
その葬儀の時、八王子市立第四小学校の朝礼の時、全校生徒は遠く皇居の方向を向いて整列し、遥拝とまでいかなかったが黙祷させられたのであった。もう戦後も6年近くも経って戦時下の風習も忘れられようとしている頃と思うが、その時の校長(依田某といった)は、なかなか根性のある皇国史観の持主だったのであろう。

その頃、教室で休み時間にちょこっと言ってみたのだ。「天皇陛下は偉くない」と言ってみたのだ。

その時の同級生の反応は予想外であったのだ。「うちのお父さんは偉いといっていた」「先生、東一っちゃんが、こんなこと言いました」とか..........。なんとも、大騒ぎになり、僕の主張に賛意を表する者は誰もいなかったのであった。

幼少の頃より、天皇制への疑問を持続している私なのである。

Posted by @ December 6, 2004 01:10 AM
Comments

話題としては掠ってる程度なんですが、「コミュニスト風の子供」というのに笑わせてもらったあとで思い出した話だったので、TBさせていただきました。
ちなみに私、「僕の叔父さん 網野善彦」はここで読んだことで買いました。書店で買ってしまったんですが、今にして思えばここでアマゾンクリックしてそのまま購入すべきでした。

Posted by: m-louis @ March 31, 2005 11:01 PM

母は特にコミュニストではありませんが、河上肇が小菅から出所して京都に戻るまでの期間、半年か一年くらい河上肇の元にいたことがあります。母は朝日新聞の求人広告を見て尋ねていったそうですが、先方は世間知らずの母を見て、とても女中として働けそうにもないと、わざわざ祖父母の元に断りに来られたそうです。それでも給金はいらないから働きたいという母に同情したのか分かりませんがお茶汲みとして置いてくれたそうです。母の証言では博士はとても誠実で優しい人で沢山有る蔵書も博士の手元に置いてある研究の為の特別な本以外はどれでも自由に読んで構わなかったそうです。博士の家には書生が頻繁に出入りして、玄関前には刑事が見張っていたそうです。
母の兄が法政大学出身なので、その影響もあったのかも知れません。その叔父は太平洋戦争が始まった時から、この戦争は負ける戦争だと言い続けていたそうで、戦時中は実家の前には常に特高や刑事に見張られていたそうです。叔父が晩年、脳梗塞で倒れ半身不随になってから始めた和歌を読んだ事がありますが、それらの多くが志し半ばで戦場や獄中で亡くなった学友を偲んだものでした。

Posted by: iGa @ December 7, 2004 01:53 PM

いゃいゃ、私ん家なんて「コミュニスト風」もおこがましい。ちょっと左翼がかったという程度でありましょう。
私ん家にテレビが導入されたのは、1959年、現天皇が粉屋の娘の美智子とやらと結婚するという行事を見るために(日本国臣民のように)買ったというていたらくでありました。
「天皇えらくない」発言は、テレビ導入の動機でも分かるように家人に直接聞いたというよりも、貞明皇后の一件なんかに、なんとなく皆同じ方向を向くというのに抵抗があった少年だったのでありましょう。
現在、少し大人になって「.....強制にならないように.....」という発言に、ちょっと「天皇陛下って偉い」って思っている今日此頃の心境ではあります。

Posted by: 秋山東一 @ December 7, 2004 09:37 AM

 いや、秋山さんのほうが筋金入りのコミュニストの子供だったのではないでしょうか。「天皇はえらくない」という発言が、だれの影響だったのか、あるいは、少年が自分で感じたのか、興味のあるところです。
 それからすると、わたしなどは無邪気なものでした。貞明皇后が死んだとき、ぼくは信濃町と四谷三丁目の真ん中の左門町に住んでいました。今では創価学会通りと化した外苑東通りを葬列の馬車が通ったのに感動したんでしょうか、ぼくは幼稚園でその絵を描きました。そのあたりまでは憶えているのですが、その先は叔母などにきかされて、へえとおもっただけです。その絵で、行列の両端の馬を紙からはみださせて描いたのを先生がとてもほめてくださったのだそうです。しかし、自分ではあまりよく憶えていないところを見ると、ただ構図の計画性がなかったために馬が入りきらなかったのではないかとも思います。
 そのころ、幼稚園でごっこあそびをするときに、いちばんエラいのがマッカーサー、そのつぎが「吉田さん」でしたが、天皇というポジションはありませんでした。マッカーサーと吉田茂の順位は妥当でしょうが、天皇をどこに入れるかというのはなかなか興味深いところです。しかし、順位には入らない別枠の超越的存在なのだとすれば、ガキの見識も大したものかもしれません。もしそのころに天皇を目撃していたら、ぼくも幼少の新一のように「無垢なるもの」に胸を打たれてしまったのではないかと思います。先日、米長のけしからん発言をたしなめた天皇個人を、ぼくはけっこう評価しちゃいました。

Posted by: 玉井一匡 @ December 6, 2004 07:23 PM